建築 雑コラム 3
Architecture The s Column
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「志水研究室」
卒業設計に寄り道しましたので、少し大学時代の話題にします。
研究室は意匠系の研究室で志水ゼミです。名城大学のその当時の意匠系のゼミは3つありそれぞれ特色がありました。
故牛山勉先生の牛山ゼミ : 牛山先生はどちらかと言うと自由で感性を大事にされていました。
私の同級生では高崎正治君、東海林修君が牛山ゼミ出身です。
鈴木逞先生の鈴木ゼミ : 鈴木先生は牛山先生と志水先生の中間的な先生でした。
私の同級生では角谷清君が鈴木ゼミ出身です。
大学4年の時大学の体育館建設案を学部で提案する機会があり3先生が合同で計画された時に
一緒に作業しました、鈴木先生のスケッチは素晴らしかったことを記憶しています。(2012.3.19)
スケッチで思い出したことがあります、志水ゼミは先生のたまり場で鈴木先生は囲碁をしに良く見えましたし、構造の宮村先生はマージャンをしに見えました。設計の非常勤の梶田先生、日比先生も設計の授業が終わると皆さん立ち寄られました。
宮村先生は、私たちが図面を書いているとそのそばに来て人の図面の端に鉛筆で何かコソコソと書いてきます、そして私をつついて「加古これを見てみろ」と言います、見るときれいなパーススケッチ、先生いわく「俺は京大の院を出てスケッチもこんなにうまくても意匠をあきらめて構造をしている、あきらめて、マージャンをしよう!』と誘ってくるのでした。でも宮村さんのスケッチ本当にうまかったです。
その当時の研究室の写真です。
製図版にドラフター今ではない風景です。 ダマスカス国立図書館コンペ模型を指さす林公子先生(当時志水先生の助手)(2012.3.20)
故志水正弘先生の志水ゼミはどちらかと言うとトラディショナルで建築デザインのみならず、
人としての基本から身に着けていくゼミでした。(良く言うと自由悪く言うとかまってもらえない牛山ゼミと対照的に制約は多いが家族的で面倒見が良いゼミ)
先生には「良い物を見て体験して覚える」事を教えていただきました。ですから普段はラーメン食べていても本当においしい物を知るために、一流のお寿司屋にも、うなぎ屋にも、天麩羅屋にも連れて行ってもらいました。
今では考えれない教育だと感謝しています。(2012.3.21)
故志水正弘先生
志水先生はいつも黒いスーツで村野藤吾、前川国男時代の建築家像が残る粋な先生でした。
(近くで接していますとかなり御茶目な所もありましたが)
私たちが居ました時代はモダニズム建築を追求されていました、その当時は実作物件はなくコンペの連続でした、
シリアダマスカス国立図書館コンペ、マニラトンド地区再開発計画コンペなどしていました。(2012.3.22)
その当時の先生の作品で
名城大学体育施設
6本のヒューム管の柱に折板の梁、折板の屋根で構成され、
折板の出が大きく水平感がモダンを感じさせる建物でした。
岩田写真館
先生が最初に考えられた「縦の歩道」でこれ以降名古屋にはこのようなタイプの商業建築が増えました。
軽快な階段と穴あき窯業ブロックの半透明感が私は好きでした。
細部まで読み取っていくと先生の声が聞こえそうです。
残念ながら二つとも現存しません。(2012.3.23)
志水先生は1980年に熱海の旅館蓬莱の設計をされました。
蓬莱は日本の有名旅館として各雑誌(建築雑誌のみではなく観光、ファッションその他の雑誌にも)に紹介されています。
先生は名古屋の設計事務所の老舗 城戸武雄建築事務所出身ですので数寄屋建築には精通されていたと思います。
蓬莱は先生らしく非常に清楚で簡素な空間で私も大変好きな建築です。(2012.3.24)
蓬莱 路地 玄関
(2012.3.25)
ロビー
群れボタルの大広間 客室への渡り
客室 残月の間
蓬莱以降志水先生は数寄屋建築の大家として作品を残されることになります。(2012.3.26)
伊豆修善寺 あさば あさば 客室
越後高田(上越市)長養館 長養館客室
(2012.3.27)
志水先生は早稲田大学出身でル・コルビュジェの弟子の故吉坂隆正先生とも交流があり、吉坂先生はインドチャンディガールの研修旅行を企画されていました。
私たちゼミ生は全員インド研修旅行に行くことになりました。(タイ バンコック、ネパール カトマンズ、インド デリー パトナ チャンディガール アグラ)
吉坂先生とチャンディガールのゲストハウスでウイスキーを空けながら夜を話し明かせた思い出は私たちにとっては貴重な体験となりました。
故吉坂隆正先生 チャンディガール パンジャブ州議事堂
(2012.3.28)
その後志水先生は吉坂先生の後を取られチャンディガール研修旅行を継続されました。
先生のインド好きはそれから始まり、教職退官後はインドに住まわれる事になりました。
2008年に先生の遺骨をガンジス川上流に散骨を兼ね久しぶりにチャンディガールに林公子先生はじめ研究室OBで旅行に行きました。
(2012.3.29)
林公子先生が退官され後任の先生が決まるまで一時期母校で林先生が持たれていました「快適性創造学」を非常勤で教える機会がありました。
モダニズム建築は出尽くしたと磯崎さんは言われましたが、
「モダニズム建築にも欠点が多くありその欠点を修正していく事から突破口が開ける可能性」を伝えようと考え授業をしました。
ここでも書きました、サヴォア邸、ファンファース邸、住吉の長屋はモダニズムを代表する住宅ですがどの建築も温熱環境が悪く快適とは程遠い建築です。
「視覚、空間では優れていますが建築は五感を満足させなくてはいけません。そういう意味での突破口は見方を変えるといっぱいあるぞ!」
と伝えたつもりですがどれほど伝わったか定かではありません。(2012.3.30)
「設計の方法」
コーヒータイム!
かなり以前こんなくだらないことを考えたことがある、建築界には〇〇スクールと言った師弟の系譜が存在するその系列ごとの離婚率?
これは一般の社会人より建築家の離婚率が高いのでは?と思って詮索したまでの事ですが、
有名な丹下スクールと菊竹スクールを比較すると(あくまでも私の知る範囲で)丹下スクールは師匠の丹下さんに習って磯崎さん、黒川さんと離婚されていて丹下スクールの離婚率が高そうだ、菊竹スクールでは私の知る範囲では離婚されていない。(2012.4.2)
丹下先生の話題で気が付いたことをもう一つ(これはまじめな話)
建築家の事務所で建築の創造の仕方はいろいろあるが、
大きく分けて3つに分かれる
1.建築家の先生がスケッチをしてそのスケッチをもとに所員が型にして行くタイプ
村野藤吾、前川国男、吉村順三、菊竹清則、内藤廣などでかっての建築家はこのタイプであった。
2.所内コンペ等で所員からアイディアを出させて建築家がそれを選択付加していくタイプ
私の知る範囲では丹下先生から始まったと思いますが、代々木体育館も所内コンペだと聞いています。
伊東豊雄、隈研吾もこのタイプです。
伊東豊雄さんは所員と同じテーブルでスケッチを出されるそうですが、隈さんはスケッチは書かないらしい。
代々木体育館 第二体育館
3.グループで協議しながら作っていくタイプ
象設計集団、シーラカンス、みかんぐみなどだが 組織が拡大分散したことのあるのだが、最近の作品ではそれぞれ事に主体となる担当性も取られているところもある。
に分かれる。
私の勤めていた事務所では
東京のLAND建築事務所は基本的には1.のタイプでしたが試験的に一度きり所内コンペをしたことがあります。
日大の構造斎藤公男先生のご自宅の計画で私はこのコンペを勝ち取りましたが、計画は実現しませんでした。
名古屋の故広瀬一良先生の中建築設計事務所では基本的に1.のタイプでしたが、物件によっては所長を含めて数名の所員案も持って施主に提出されることもありました。(2012.4.3)
「中建築設計事務所」
名古屋に帰り中建築設計事務所にお世話になったのですが、中建築設計事務所の名は大学時代から知っていました。
恩師故志水正弘先生と、故広瀬一良先生は御親戚で最高裁判所コンペをご一緒にされた記録が研究室にあり知っていました。(2012.4.4)
東京から名古屋に帰りしばらくすると、母が「婦人の友」の友の会の会員で名古屋の会館を中建築設計事務所が設計していた関係から(妹島さんが建築に興味をもたれたきっかけがこの「婦人の友」に掲載された菊竹さんのスカイハウスの写真といわれていました)
当時所長をして見えました故広谷嘉秋所長に会ってみてはと言われ広谷所長にお会いしたら何時から来れるかと言われて一週間後には勤めていました。(2012.4.5)
中建築設計事務所は名古屋高等工業学校(現在名古屋工業大学)の友人関係の故広谷嘉秋氏と故広瀬一良氏が中心となり構造の梶田丈氏と積算施工監理の故堀江宏吉氏の四人が役員の設計事務所で名古屋の事務所では老舗の部類になると思います。
経営を広谷氏がデザインを広瀬氏が主にされてみえました。
故広瀬一良先生は 建築家協会、や雑誌建築ジャーナル、C&Dそして広瀬先生の好きなコンペにて
名古屋の建築文化を一時期をリードされた先生でした。
故広瀬一良先生 (2012.4.6)
故広瀬一良先生のコンペ歴です。
1919年生まれですから50歳の1969年最高裁判所コンペから加速してコンペ熱が上がります。
20回参加して何と入賞率5割の成績は素晴らしいの一言です。!
(2012.4.8)
広瀬先生は建築界の先頭を旗を持って走る人をとても気にされ勉強されていました、
いつか先生が旗を持って走る夢を見られていたのでしょう。
ですから最先端の情報をいつも勉強されていたように思いますが、もう少し広瀬さんらしい世界を構築されれば・・・・とも思いました。
また基本設計以降かたちになるまでの執着は少ない先生でした。
幻の箱根国際センターコンペで入選されて、コンペで優勝し名古屋港ポートビルを設計されました村瀬夘市先生の作品にも
内部、細部、ディティールへの執着がいまいち・・・・というところが共通するように感じます。
(2012.4.9)
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