建築 雑コラム 16
Architecture The s Column
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「パラダイムシフト 続き」 第二次大戦後
第二次世界大戦以後 世界の経済、政治、文化の中心が欧州からアメリカ、ニューヨークに移る。
中心がアメリカに移るもう一つの要因として、第一次産業革命では石炭がエネルギー源であったが、第二次産業革命(1965〜1900)
では石油と電力がエネルギー源となり、豊富な石油資源と利権を確保したアメリカが優位な立場に立った事も大きな要因となる。
(2013.11.11)
建築では前にも書きましたが、様式建築を中心とするボザールからの脱却とモダニズムを中心として、国際的に均質な様式を求めたCIAMが
1928年にル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピュース、などによって立ち上げられ1959年の解散まで続いた。
ボザールからの脱却は大戦前に達成された様に思われる、戦後の会議では国際的に均質な様式を目指すグループと、それに対し疑問を持つ
若いグループが対立し(チームX)最終的には1959年に解散となる。(この時すでに疑問を持っていたル・コルビュジェは脱退していた)(2013.11.12)
私は現在の日本の都市に建っている建築を見ると、ほとんどのビルがモダニズム建築のデザインで覆い尽くされている、またアメリカやアジアの都市、
ヨーロッパの新市街地での建物もほとんどがモダニズム建築で建てられている現実を見ると、「国際的に均質な様式を目指す」CIAMの様式の延長は
現在も続いているように思われる。(2013.11.13)
新市街地の風景はどこの国も同じ様になってしまった。
私の事務所からの風景、どこの国の風景か判別しにくい、モダニズムまがい建築ばかりの風景(2013.11.14)
これはモダニズムの建築が簡略で生産しやすい特徴がある事も大きな要因となっている。
(安易なデザインの建築は「モダニズムまがい建築」とするべきと私は思う)
またこのモダニズムまがいの建築は100年もしない内に大量のゴミとして廃棄されるであろうと予想される。
この事は20世紀のパラダイムを明確に示している事になる。(2013.11.15)
CIAMの解散のきっかけとなったチームXがその後モダニズム様式に変わる明確なビジョンを提示する事無く消えて行った事は、
世界中にモダニズムまがい建築を蔓延させた大きな原因と私は思います。(2013.11.16)
そんな中1960年東京で開催された「世界デザイン会議」に向けて結成され、発表されたメタボリズム(浅田孝、菊竹清則、黒川紀章、大高正人、
槇文彦、栄久庵憲司、栗津潔)は機械をめざしたモダニズムに対抗し、生命の代謝をめざした様式で、西洋に追いつく事で目いっぱいだった日本から
世界の建築界へ発信できた最初のメッセージとなる。(2013.11.17)
黒川紀章(1934〜2007) メタボリズムの建築 黒川紀章 中銀マンション(2013.11.18)
私は東洋的な発想を原点とした黒川紀章は独特の個性で嫌う人も多いが、彼の発した思考と構想、実現化する行動力は再評価されるべきと
私は考えます。(2013.11.19)
大戦前の日本の建築界は洋式建築を建てる事、西洋に追いつく事で語れると思います。
大戦後になって初めて日本的なと言うキーワードが出てきて、その「日本的なモダニズム」を求めていた建築家が丹下健三でした。
丹下健三(1913〜2005)(2013.11.20)
丹下健三は東京オリンピックの代々木体育館で世界的な建築家として有名になっていくが、1970年の大阪万博以後は海外での仕事が多くなり、
晩年1991年に新都庁舎を設計した事で有名である。
代々木体育館(2013.11.21)
東京カテドラル教会
新都庁舎(2013.11.22)
丹下健三は国家の威信をかけ庁舎とは・・、オリンピック施設は・・、教会とは・・、と手本となる最初の建築を創り続ける使命の建築家であった。
コルビュジェ好きな丹下健三であるが、白の時代を手本にした建築が無いのはさすが読みが深いと感心します。
丹下健三は日本の社会の発展の一時代を彼なりのモダニズムで担った建築家として評して良い。(2013.11.23)
国際様式はル・コルビュジェの白の時代の建築を世界中に広める事になるが、当のル・コルビュジェは戦後ユニティー、チャンディガールと
地域の気候に根差したデザインに変わり、最終的にはロンシャンの教会へ収束する。後期の時代のル・コルビュジェの弟子が日本では吉坂隆正である。
ル・コルビュジェと吉阪隆正(1917〜1980)(2013.11.24)
吉阪隆正は後期のコルビュジェ建築であるユニティー、ロンシャン、チャンディガール、の地域環境に根差した建築を引き継ぎ、
均質ではなく、その土地の場を読み取って建築にする表現を、早稲田大学の教壇、彼の事務所のU研究室を通して表現していくが
1980年(63歳)に若くして亡くなられた事は日本建築界として残念なことである。(2013.11.25)
大学セミナーハウス
大学セミナーハウス (2013.11.26)
大学セミナーハウスは吉坂隆正が唱える。不連続統一体(DISCONT)の発想が現わされたかたちである。
吉坂の思想はその弟子の事務所、象設計集団(チームZOO)に引き継がれる。
象設計集団 名護市役所 沖縄の気候と風通しを考えてデザインされた(2013.11.27)
1970年万博以降日本の建築界は西洋先進国へ追いついた感があったのか?(明治以来の目的が達したのか?)しばらく彷徨った感じがします。
大島や、沖縄を調査する吉阪隆正、日本各地をデザインサーベイする住宅設計で有名な宮脇檀、世界の集落を調査する原広司などはこの時期に
集落や街並み古建築を調査して模索しています。(2013.11.28)
宮脇檀(1936〜1998) 原広司(1936〜) (2013.11.29)
1955年に二川幸夫が出した、「日本の民家」や1964年に出され1975年に日本でも出版された「建築家なしの建築」などの影響が強くあると思われる。(2013.11.30)
吉坂と同じ様に集落の調査をした原広司が、吉阪のDISCONTに近い論理でDISCRETEを唱え、弟子が同じ様な設計集団シーラカンスを作り
象設計集団の得意だった学校を、シーラカンスのグループも得意とするのは、きっかけが同じなら同じ結果になるのか?、と?
シーラカンス名古屋 淑徳学園 (シーラカンスは明らかに白の時代の延長線でデザインしている)(2013.12.1)
世界に発信したメタボリズムであったが永くは続かず、磯崎新が、世界の建築情勢から察知し牽引したポストモダニズムの時代へと日本も進む。
磯崎新(1931〜 つくば学園都市
丁度この頃1973年に私は大学の建築科に入学する。私たちにとって、雑誌に載る磯崎新の難解な文章を理解できる事がカッコ良いと思った時代。
磯崎新が先頭で丹下健三は日本を捨てて出て行った建築家の様に言われた時代。(2013.12.2)
建築は芸術でアバンギャルドがカッコ良かった時代。
磯崎新は私たち年代からすると兄貴的な先輩指導者であった。
そしてバブルが始まり、いろんな建築家がいろんな事をして、バブルがはじけた時には世間から建築家は
「自分の好きな事だけして、施主の意見を聞かず、コストコントロールもできない」として浮いた存在となっていました。
(実際はバブルに遊ぶことなく着実に実務に励んだ建築家の方が多かったのですが、世間の建築家への批判はあって、この反省は現在の建築家協会
も十分理解して社会性のある責任を持った建築家像を求める様になってきたと思います)(2013.12.3)
磯崎新は西洋に絶対的な価値観があって、それを信じ、西洋に追いつき追い越せと明治以来続いた東大思考の最後の人なのかもしれない。
(ギリシャから続く建築家の流れにある建築家(西洋絶対思考)を磯崎さんは「大文字の建築家」と言い、丹下健三は「大文字の建築家」
村野藤吾はこの流れにないので「小文字の建築家」と磯崎新は論するが、私はこの論理はおかしいと思います。)(2013.12.4)
私の様な地道な建築家は出会った施主のためにただ淡々と創り続けて来たのですが、磯崎新に言わせれば、「小文字以下の建築家」なのでしょう。
丹下健三は日本の社会の発展のためにその一時代を担ったが、磯崎新や、原広司の時代の人は建築のみでなく、学生運動なども同じ様に、
現状社会を否定する事から始まり、その中で自分の生きる道はと(そのために理論武装して)考える時代だったのかも知れない。
しかし最終的には社会のためでなく、建築界の自分のポジションが一番大事だったのではないだろうか?
(磯崎新も、原広司も、安藤忠雄も建築家協会などの組織には入らず、建築家団体の発展のためには尽力しなかった世代です,)(2013.12.5)
また、丹下健三、黒川紀章、菊竹清訓までのメタボリストまでは建築のみでなく都市計画、都市環境を良く語ったが、
ポストモダニズムの時代は敷地内の建築に限定される事が多く、原広司の場合は、概念的に建築の中に都市を引き入れた表現をしたが、
あくまでも表現のみで、都市や街の人間社会のコミュニティーに影響を与えるものではなかった。
都市を建築に引き入れたと言われた原広司自邸(2013.12.6)
ポストモダン以降 建築家から都市問題や街の成り立ちなどの部分から大きく離れて行ってしまったように思います。
また安藤忠雄の「住吉の住宅」を代表とするように、空間が敷地境界線内に限定された内向きな空間を求める作品が多くなった。
住吉の住宅(2013.12.7)
住宅に関しても隣近所との関わりなどが消えて、最近では子育てをしない夫婦や、シングルの住宅ばかりが雑誌に載り、
本来の街や村の中にあった民家(隣近所の人が出入りして社会を構成する一部として存在し、その材料もほとんどが近隣で調達できた)からすると、
変わった形態のみの希薄な空間となってしまったような気がします。
東北大震災後、伊東豊雄、妹島和代、内藤廣、山本理顕ら多くの建築家が震災復興に携わっている事は社会離れした建築家から、
本来の社会や市民の中の建築家像に立ち返ったと思われる良き変換点になれば良いがと思っています。
また、磯崎さんの時代と違って伊東さん、山本さん以降の有名な建築家は建築家協会に所属して社会活動を始めています。(2013.12.8)
東北 みんなの家(20123.12.9)
私の大学の同級生に世界的に活躍している建築家 高崎正治 がいます。
彼は大学時代からとても純粋な人間で、今回の震災復興にも一生懸命参加しています。
彼のホームページに詳しくその記録が出ていますので見てください。彼の行動力にはいつも頭が下がります。
高崎正治(2013.12.10)
20世紀は、産業革命以降無限大の発展を信じていたが、このままでは地球環境が持たないことを確認した時代だったと思います。
現在解決しなくてはいけない問題を箇条書きにします。
1.世界人口増大に対応できない食糧問題。水不足問題。
2.化石エネルギーの枯渇問題とエネルギー不足問題。
3.二酸化炭素増加に伴う環境問題。
4.地球温暖化問題とそれに伴う海水の上昇問題。
5.現状の技術では処理できない核問題。
6.増大するごみの問題。
7.先進国において、共同社会崩壊に伴う、精神不安定人口の増加問題。
8.富める国と貧しい国の格差拡大の問題。(2013.12.11)
など多くの問題を抱えますが、これらを解決しなくては地球環境が維持できず、多くの人類の危機につながる問題です。
21世紀を生きる私たちの使命はこれらの問題を乗り越えて解決する事だと思います。(2013.12.12)
私たち建築家は建築を通しての解決策を考えなくてはいけない。
上記の諸問題は20世紀のパラダイムから発生したと考えれる。
(2013.12.13)
食糧にしても、エネルギーにしても、二酸化炭素にしても、核にしても、ゴミにしてもすべてこのパラダイムから脱していない。
中でも、人口と食糧問題はとても重要な事で、地球の現状を例て言えば、閉ざされた空間に10人の人がいて、7人分の食料しかない状態です。
現在の資本主義的な状況では金持ちの先進国2人が一人2人分の食料を買い、残りの3人分を取り合って2人が確保し、
1人分を戦争し奪い合い、確保できなかった人は餓死している。先進国の2人は半キレを慈善事業と称して飢餓している人に分け与えている。
(2013.12.14)
そこで前にも書きましたが、フランス革命の
自由 → アメリカを中心とする自由主義の世界 (このままでは破綻する事が目に見えていて、そのうち崩壊の日が予測される)
平等 → ソ連を中心とする共産主義の世界 (すでに崩壊した)
博愛 この精神を根底とする世界はみうけられない。
を思い出してください。(2013.12.15)
この最後の「
博愛」が21世紀のキーワードとなると私は思います。
7人分の食料を10人で争いなく分けるには「博愛」の思想と社会システムが必要となってきます。
当然地球全体で人口をコントロールするシステムにも「博愛」の精神が無ければ悲惨なコントロールとなってしまいます。(2013.12.16)
そしてサスティナブル(持続可能)な循環社会に現状を組直して行かないと地球が持たなくなります。
(たぶん地球ではなく人間社会が持たなくなるのみで、人間抜きの自然は喜び勇んで10年もあれば再生されるのでは?と思います。)
そこで、私が考えた21世紀のパラダイムは(2013.12.17)
となります。(2013.12.18)
これは日本に昔からあった思想に近い考え方で、例えばお味噌汁のお椀で考えると、20世紀のパラダイムでは使い捨てのプラスチックのお椀で
古くなれば使い捨てゴミとしますそして新しい物を買う。(2013.12.19)
21世紀のパラダイムでは素材の木にお椀を作る職人が一生懸命いい物を創ろうとして結果として生命を与えます。ですから物が創造されます。
その創造されたお椀を使う人は大事に活かして使っていく、これは消費とは全く違うもので、活用と考えました。(2013.12.20)
大事に使っても全ての物には寿命があります。寿命を終えたものを再生して使ったり、お椀では土に還元して木になってまたお椀の材料になる。
この事を還元と考えました。(2013.12.21)
もう少し分かり易い図にしてみます。
全ての物がこのパラダイムで組み直された時サスティナブルな社会となると思います。(2013.12.22)
食料は化学肥料ではなく有機肥料で汚水処理、生ごみ処理と共に考え小さなエリアで循環する様に考える必要があります。
エネルギーは化石エネルギーからの脱却が必要ですが、早急には難しいので省エネルギーと自然エネルギーと両方考えていく必要があると思います。
(2013.12.23)
しかし、化石エネルギーからの脱却が21世紀に課せられた課題で早期に解決される事が、新しい時代を生み出すことは明白である。
日本は水に関してはまだ恵まれていると思いますが、世界では水で苦労している地域が多いと思います。
水の循環システムと、飲み水に返還するシステムの発展が多くの地域で必要とされています。
38年前に豊橋のお茶の水博士、川合健二先生に教えて頂いた、海水を水に返還するシステムで、Reverse Osmosis(リバースオスモシス)
があります、現在では浄水器でよく使われている 逆浸透膜システムですが、もっと大掛かりな設備にすると 砂漠にも用水が引け耕作地に
変換する事も可能になります。
砂漠が耕作地になれば食料が確保でき、緑化の影響で温暖化への対応にも期待できます。(2013.12.24)
核は現在の技術では20世紀のパラダイムでも十分に満足できないシステムです。私は到底21世紀に残るシステムではないと思います。
化石エネルギーを止めていく事で二酸化炭素は減っていきます。
地球に降り注ぐ太陽エネルギーは膨大で私たち人類の現在使っているエネルギー量を十分供給可能です。
如何にエネルギーをくみ取るかを開発するのみで、もうすぐそこまで来ているように思いますが、
化石エネルギーを中心に組み立てられた国際経済の国家間の枠組みの変革に係ってもいますので紆余曲折しますが、
21世紀末には完全に化石エネルギーから脱却した枠組みになっている事と信じています。(2012312.25)
化石エネルギーを持たない日本が何故核エネルギーにこだわり、化石エネルギーからの脱却の開発に力を注がないのか不思議です。
化石エネルギーを支配する現在のアメリカを中心とした枠組みを長く維持する事をめざしているのでしょうか?
私は
日本が化石エネルギーからの脱却できた国の先頭に立つことを期待しています。
また、それが21世紀後半の世界をリードする国の条件だと思います。(2013.12.26)
20世紀以前は地方の人口が7割で都市人口が3割でしたが、20世紀末では地方の人口が2割で都市人口が8割になりました。
20世紀のパラダイムでは都市に人口が集中移動し、20世紀の建築家は容易くできる箱を作ってこれに対応してきただけかもしれない。
21世紀は情報が発達し必ずしも都市に住む必要が無くなれば、再び地方に人口が移動する可能性がある。(2013.12.27)
そうなればより地域と密着した生活で昔の様にその地域の祭りや文化が定着し人と人の繋がりも復活するのではないかと私は期待しています。
さて建築家はこの変化をどの様に形にして行ったらよいのだろうか?(2013.12.28)
その土地にあったエネルギーを使わない建物、
人に感銘(何か心に通じる命)を与え大事にされて使い続けられる建物、(2013.12.29)
寿命がきてから解体されリサイクルされるシステムを考えられた建物
その建物がある事で周りの環境が活き活きしたり、周りの自然が生きづく建物
キーワードはいっぱいあるが、山は大きく高い! ゆっくりできる事から進めていこう!(2013.12.30
日本においてこれからの課題は「いかに成熟した社会を構築するか」である。
そのためにはアメリカのみを観ているのではなく、北欧の成熟した社会を参考にして日本独自の社会を構築する必要がある。
21世紀の末にも自然と市民の中で、活き活きと仕事をしている建築家が多くいる事を夢見ています。
(2013.12.31)
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