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建築  雑コラム 20

Architecture         The s   Column    

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「ウイーンの建築」

昨年秋に近代建築の原点と私は思っている、オット・ワーグナーとアドルフ・ロースの建築を観にウイーンへ行ってきました。

ウイーンはオーストリアの首都でヨーロッパの中世を支配した、ハプスブルグ家のあった城下街で今はトラムの走るリンクと言われる通りは

かっては城壁で街を取り囲っていた。街の中心にはシュテファン大聖堂とハプスブルグ家の王宮がある。(2014.6.28)

    
シュテファン大聖堂                          王宮(2014.6.29)

シュテファン大聖堂は12世紀にロマネスク様式の教会として建てられたが、14世紀〜16世紀に改築がされて現在の様に後期ゴシック様式と

なった。

        
ロマネスクを改装したゴシックの内部(リブはあるが天井が低い)      ステンドグラス(2014.6.30)

シュテファン大聖堂の前に建てられたハンス・ホライン(オーストリアの建築家)の設計のハースハウス(商店建築)は

どう見ても街の雰囲気を台無しにしている。

ホラインは哲学的な御託を並べて正当化したが、実態は見ての通り!

        
        ハンスホライン ハースハウス(2014.7.1)

ハプスブルグ家は「戦争は他家にまかせておけ、幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉通り婚姻によって

19世紀末までヨーロッパ中に勢力を拡大した。

現在でもスペイン、ベルギー、ルクセンブルグの皇室はハクスブルグ家の血筋である。

オーストリア、ハプスブルグ家で有名な女帝マリア・テレシアは16人の子供を産み、シェーンブルン宮殿を造った。(2014.7.2)

                 
                 マリア・テレシアの銅像(2014.7.3)


シェーンブルン宮殿(2014.7.4)

                                     
                                     シェーンブルン宮殿大ギャラリー(モーツアルトもここで演奏したと言われる)

この宮殿の中には16人の子供の一人で、フランスの国王に結婚した、マリー・アントワネットの部屋もある。(2014.7.5)

シェーンブルン宮殿はマリア・テレシアの好きな色の薄黄土色の色をしていてこの外壁の色はモーツアルトの家にだけ使用を許されたそうです。

19世紀のこんな世界の中心地ウイーンから近代建築が始まったと考えても納得がいく。

近代建築は産業革命以降多様化する社会に対応する建築を生み出した、もう少し分かり易く言うと。

近代以前の建築家は王家の城や、宮殿、また宗教建築の大聖堂やチャペルを創ってきたが、

近代以降は駅舎、水門、郵便局、博物館、学校、工場、集合住宅、など様々な用途の建築に携わる様になった。(2014.7.6)

今回の旅の目的も私は近代建築の始まりのキーパーソンと考えるオット・ワーグナーの建築を観る事です。

                    
                    オット・ワーグナー(1841〜1918)(2014.7.7)

オット・ワーグナーはウイーン工科学院で学んだあとベルリンの科学アカデミー、ウイーン美術学校を卒業している。

初期には古典主義的な建物を建てていたが、その後ウイーン市の都市計画顧問に就任し都市計画に係り、ドナウ運河の水門、鉄道の駅舎、橋梁

などを建てている。(2014.7.8)

また1891年にウイーン美術学校の教授に就任し、彼の弟子のヨセフ・マリア・オリブリッヒやヨーゼフ・ホフマン、画家のグスタフ・クリムトと共に分離派を

結成する、1905年に内部の対立をきっかけにワーグナーとクリムトは分離派から脱退する。

コラム15で書いた「パラダイムシフト」の中でル・コルビュジェ、ミース・ファンデルローエ、ワルター・グロピウスが勤めたベーター・ベーレンスを書きましたが、

このベーター・ベーレンスに建築を教えたのが、ヨセフ・マリア・オリブリッヒでその師匠がオット・ワーグナーとなる。(2014.7.9)

オット・ワーグナーは「芸術は必要にのみ従う」という機能主義の名言を残している。

私が観てきたオット・ワーグナーの建築を年代順に紹介します。

最初は1877年に建てられたショッテンリング23番の集合住宅です。(地下鉄U4 Schottenring)

以前の城壁を壊して造られた、リングと言う大きなメイン道路に沿って建てられた建物で、同じようなファサードで高さも同じ様な建物が並んでいました。

       
ショッテンリング23番地の集合住宅 (1877)               1,2階は御影石、3,4階はタイル貼、最上階は庇のあるレジデンス
(2014.7.10)

この建物はワーグナー自身が施主となり1882年まで住んだ建物で、印籠の門がある、古典的な部分も残る三層構造ですが、

三角の市松模様のタイル張りはその当時かなり斬新な物だったと思われる。 

窓のプロポーションなど個々を見ても、きっちりデザインされているのが良く分かる。(2014.7.11)

次に1882-1884年に建設された、オーストリア連邦銀行 です。(地下鉄U3 Herrengasse ショッテン教会 東)

この建物はファサードが目立たずとても見付けにくい建物でした、また中にも入れませんでしたが、裏に回る事が出来ワンカット写真が取れました。

           
           オーストリア連邦銀行 裏から (1884)

130年前にこのモダンな表情があった事に驚かされます。この表情から後で紹介しますアドルフ・ロースのロースハウスに繋がる様に思いました。

内部はガラス天井の円形玄関ホールがあるそうで、是非見たかったのですが見れませんでした。(2014.7.12)

次は1890〜1891年にワーグナーが自邸として建てたホヨース宮殿(なんで宮殿なのか?是非中が観たかったのですが、ダメでした)


ホヨース宮(1891)(シュヴァルツエンベルグ広場 東)

印籠の門は無くなり、三層構造ですが、凹凸は少なく、植物のレリーフ模様は後のマジョリカハウス、そしてアールヌーボーまで繋がっていそうです。

軒先や窓周りなど、ワーグナー独特のボキャブラリーが出て来ています。(2014.7.13)


次はカールスプラッツ駅舎(1894〜1898)で市電の駅舎です。(地下鉄U1,2,4 Karlsplatz)


カールスプラッツ駅舎(1894〜1898)(2014.7.14)

同じデザインの建屋が対になっています、もう一方はサンクンガーデンが付いたレストランにリノベーションされています。

                                
                                カールスプラッツ駅舎 レストラン側(2014.7.15)


ディテェールをよく見れば、庇の先にはオット・ワーグナー独特の装飾(これはトトロの頭に付いた葉っぱと同じものを感じました)


軒先のディテェール(2014.7.16)

扉や、柱脚は植物のモチーフのデザインでイギリスのアーツ&クラフトやフランスのアールヌーボーと共通するものを感じます。

                                        
                                        扉のデザイン(2014.7.17)

同じく市電の駅舎ですがこちらは王族がシェーンブルン宮殿(少し郊外にある)に利用した王族専用駅舎の市電ホープパビリオン(地下鉄U4Hietzing)


工事中の市電ホープパビリオン(楕円の窓はバロックぽい、丸いドームはイスラムのモスクっぽい)(194〜1898)(2014.7.18)

工事中で内部は見えなかったのですが仮設の仮囲いに内部写真があってそれを撮ってきました。

                                      
                                      マホガニー仕立てでさすが豪華な駅舎です。(2014.7.19)

次は外壁がタイル張りのリンケ・ヴィインツアイレの集合住宅(通称マジョリカハウス)(1898〜1899)


左の建物の外壁マジョリカ焼きタイル貼りなので通称マジョリカハウスと言われている(地下鉄U4Kettenbuckengasse)
右の建物もオット・ワーグナーの設計で二軒でリンケ・ヴィインツアイレの集合住宅 (2014.7.20)

オット・ワーグナーの著書「近代建築」には面白い事が書かれていました、「外壁にタイルを使うと汚れる事が少なくまた洗う事が出来る」

そうです産業革命以後の街は煙突が立ち並び、煤煙がかなり出ていたのでしょう、凹凸のある中世の建物は汚れて苦労していた光景が浮かびます。

その対策としてマジョリカ焼きのタイルの外壁が出来たのでした。しかし一枚一枚に書かれた植物の絵が繋がって建物の装飾になっている

とても手間暇のかかった建物です。タイル張りの外壁はイスラム建築を思い出します。(2014.7.21)



マジョリカ焼きタイルの外壁(2014.7.22)

左右の建物のファサードラインがきれいにそろっています、街並み、エレベーションとはこう言う事を言うのかと気が付きます。

                                           
                               右の建物のコーナー部分のデザイン、後の郵便貯金局に繋がります。(2014.7.23)


スリットエレベーターを取り囲んだ階段室(同じような構成がガウディーのカサ・カルペ、カサ・バトリョウにもありました)(2014.7.24)

次は街の少し郊外で北西の高台にあります、丘全体に病棟が並んだ州立精神病院の中にあるアムシュタインホフ教会です。
(地下鉄U3 Ottaking駅よりタクシー)(土曜15:00、日曜16:00のガイドツアーのみ内部見学ができる)


アムシュタインホフ教会(1905〜1907)(2014.7.25)

                                  
                                  ドーム部分(2014.7.26)


エントランス上部(2014.7.27)

                  
                  内部(2014.7.28)

                
                祭壇詳細

この教会はクリムトの絵と共通する、華やかさがありますが、私はこの建物は好きになれませんでした。

 しかし100年以上経っているのにメンテランスはされていると思うが、とてもきれいな状態でした。(2014.7.29)

次は街中にありますドナウ運河水門監視所(1906〜1907)で現在は講習会場として使われている様ですが閉っていました。


ドナウ運河水門監視所 (地下鉄U4 Schottenring) (2014.7.30)


                  
                  正面 (2014.7.31)


とても気になるのが下の落書き!

アメリカ、ニューヨークの様な歴史のない街は落書きも芸術として認められポップ文化と、もてはやされた時代もありましたが、

歴史のある街の若者が、それを真似て歴史文化のある土台にする落書きは 「犯罪」 だと私は思います。

そして本当の芸術を知らない人だと思います。 (才能のある人は紙に書いても、表現できる)

イタリアでも、パリでも、ギリシャでも見かけて これは責任を取らせなければ文化が壊されると思いました。

日本でも多くの寺院の柱などに名前などが見受けられますが、

地下鉄の車両全体に落書きするようなバカはいませんので世界の中ではまだ文化程度が高いのでしょう。

落書きをした人は、自分の責任でもとに復元し、それを見て気分を害した人に慰謝料を払うべきです。(2014.8.1)


最後にオット・ワ−グナー晩年で私は最高傑作と思います、ウイーン郵便貯金局(1904〜19012)を紹介します。(地下鉄U3 Stubentor駅)

        
        ウイーン郵便貯金局 正面 一街区を囲むかなり大きな建物 (2014.8.2)

       
コーナー部 納まり                                   大理石版をボルトで止めた外壁(下部は御影石版)(2014.8.3)

            
            エントランス 詳細 庇部柱梁はアルミ製 (現在でも十分通用する、100年前のデザイン)(2014.8.4)


            
            内部ホール前面(建築科の学生がこの中で先生から講義を受けている、なんと羨ましい)(2014.8.5)


            
            ホール見返り (2014.8.6)



    
 ホール天井詳細 すりガラスの天井で鉄骨トラス梁はガラス面の上部で納まって天井面はとてもシンプルに見える。(2014.8.7)



                                       
      ホール床詳細 床はガラスブロック、正面のアルミの筒は空調吹き出し口、受付カウンターもシンプルだが気品がある。(2014.8.8)



アルミ製の柱(足元が絞って細くなっている、床との接点のディテールも完璧、照明もとても良く考えてありました。(2014.8.9)

         
展示スペースとして再現されたカウンター                       受付ブース

どれも細部のディテールまでデザインされつくしていました、シンプルなデザインで、近代への傾向がはっきりと見えます。(2014.8.10)


もう一人近代建築の礎となった建築家で「装飾は罪悪である」と言ったアドルフ・ロース(1870〜1933)(ワーグナーより29歳若い)の作品を年代別に

紹介します。

                     
                     アドルフ・ロース(1870〜1933)(2014.8.11)

まずウイーンの芸術家の多くがこのカフェでコーヒーを飲んだと言われる「カフェ・ミュゼ」 白い壁と湾曲する天井で装飾のない空間


現在も続いている、カフェ・ミュゼ アドルフロースはワーグナーの後の世代でアールヌーボーや分離派に反発して装飾を嫌いました。
(1898〜1899)(地下鉄U1,2,4 Karlsplatz) (2014.8.12)

アドルフロースは20代前半にアメリカ シカゴに渡りアメリカの合理主義の建築に影響を受けています。1896年(26歳)に帰国しました。

                                 
アメリカンバー(1908) (地下鉄U1,3 Stephanspl)                         紳士服店クニーシャ(1910〜1913) (地下鉄U1,3 Stephanspl)

郊外にシンプルな住宅を数件建てていますが今回は見る事が出来ませんでした。(2014.8.13)

オットワーグナーの郵便貯金局に対抗して設計したと言われる中央貯蓄銀行マリアヒルフ・イノバは現在は商店建築となっていましたが、

一部雰囲気が残っていました。


中央貯蓄銀行マリアヒルフ・イノバ (1914) (地下鉄 U3 Neubaugasse) (2014.8.14)


                   
エントランス(黒御影)                               エントランス上部 (2014.8.15)


そして、アドルフロースの傑作で王宮の門の前に建てられた「ロースハウス」(1909〜1911)

            
            ロースハウス(1909〜1911) (地下鉄U3 Herrengasse) (2014.8.16)


白いシンプルな外壁、下部は深緑の大理石


下部詳細 印籠のドーリア式オーダーをイメージさせる柱 (装飾を嫌うアドルフ・ロースだが古典のパーツは所々見受けられる) (2014.8.17)



                    
                    内部はマホガニーで重厚で豪華な雰囲気がある (2014.8.18)


                    
                    階段室 (たぶんこの空間がアドルフロースの本質の様に感じました)

装飾を嫌った、アドルフロースですが、近代の特徴の軽さは感じませんでした、むしろ重厚を意識した空間です。
(オット・ワーグナーの方がむしろ軽い空間です)

なぜか、何となく日本の建築家高松伸を思い出してしまいました?

29歳も年下の建築家にこれほど対抗意識を持たれたオット・ワーグナーの偉大さを改めて感じる事が出来ました。(2014.8.19)


ここで、久しぶりのコーヒータイムで建築から離れます。

ウイーンは音楽、芸術の都です。クラシックにはあまり詳しくない私ですが、

行ってきましたウイーンフィルハーモニーの「楽友協会会館」(チケットもホームページから取れます)(地下鉄U1,2,4 Karlsplatz)

残念ながらウイーンフィルハーモニー管弦楽団ではありませんでしたが、モーツアルトのコンサートとブラームスのコンサートを聞いてきました。

大ホールの「黄金のホール」は四角い平面で、内部は木製でなぜこれで音響が良くなるのか分かりませんが、クラシックに詳しい方のお話では、

このホールの音響の良さは有名らしい。


楽友協会会館 (2014.8.20)


                            
                            黄金のホール (2014.8.21)



ブラームスホール

何とモーツアルトのコンサートで私の席の近くに居た人たちが、2日後のブラームスのコンサートでの出演者でした。

出演して来た時はとてもびっくりしました。 (2014.8.22)

国立オペラ座でロッシーニの「セビリアの理容師」も観て来ました。(チケットもホームページから取れます)(ほとんど毎日開催しています)
(地下鉄U1,4 Karlsplatz、U2Oper))


国立オペラ座 2014.8.23)

   
客席                                        舞台 (2014.8.24)


また、ハクスブルグ家が400年にわたって集めた美術品が美術史美術館にあります。(地下鉄U3 Volkstheter)

エジプト、メソポタミアからクリムトまで多くの作品があります。

              
              美術史美術館 (2014.8.25)

中でもラファエロの「草原の聖母」、ブリューゲルの「雪の中の狩人」「農家の婚礼」、デューラの「皇帝マクシミリアン1世」、

ベラスケスの「青いドレスのマルガリータ王女」など観る事が出来ました。


農家の婚礼 (2014.8.26)


                              
                              青いドレスのマルガリータ王女 (2014.8.27)

グスタフ・クリムトの絵を観るには、ベルヴェデーレに行くとたくさん観れます。(トラム D番Schlob Belvedere)

ベルヴェデーレは「美しい眺め」と言う意味だそうで、オスマントルコがウイーンを攻めて来た時活躍した、ブリンツ・オイゲン公の夏の離宮だったそうです

名前通り、高台のここからのウイーン市街の眺めは最高です。


ベルヴェデーレ (2014.8.28)


              
              ウイーン市街、シュテファン大聖堂の塔が見える 眺め (2014.8.29)


                       
                       グスタフ・クリムト 「接吻」(2014.8.30)

また同じオーストリアの作家でクリムトの後輩のエゴン・シーレの作品も多くありました。

                
                エゴン・シーレ 「自画像」(2014.8.31)

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